私の感動した1冊
1冊の本との出会い、新しい世界が広がる・・・


№26
『花の旅立ち』
新町支部 畑山千代枝
令和四年四月号の『大和島根』に谷口純子先生の『二人で行く一本の道』と題して、平山郁夫画伯の奥様美知子さんの強い生き方が載っていました。
一九九八年一月の帰省先の書店で純子先生が求めておられた、平山美知子『道はあとからついてくる―「家計簿」にみる平山画伯家の足跡』という本を見つけ、この妻なくして、今日の平山郁夫さんは決してなかっただろうと思われた。
美知子さんは、簡単に筆を折ったのではなかった。画家になりたい一心で懸命に勉強した美知子さんにとって、絵は生命と同じくらい大切なものだった。二人の師である前田せい青そん邨 画伯からは「夫婦で競い合っていては、うまくいかないよ。どちらかが潰れるか、共倒れしてしまう」と言われる。そして長い葛藤の末に得た結論はこうだった。
「もし、何か捨てるのなら、自分にとって、一番大切なもの、価値あるものを捨てる。そうでなければ、捨てる価値はない。(略)捨てたものに価値があれば、その代わりに私が得るものは、もっと価値あるものだし、価値が生じるものにちがいない」(略)
本の最後に幻の都、ろう楼らん蘭を訪れた時のことが記されている。楼蘭には、中国側スタッフの特別のはからいで、三十分だけ着陸することが許されて、平山さんは八枚のスケッチを仕上げたそうだ。その時平山さんは、「鉛筆を削れ!」とそれまで一度も言ったことのないような激しい言葉で叫び、必死の形相でスケッチを続けた。その間、美知子さんは鉛筆を削ってばかりいて、まわりを見回すゆとりもなく、楼蘭を去る時、はじめて空を見上げ、「何と美しい空だろう」と思ったそうだ。そして「『ああ、ふたりでひとつのことをしている』と、チラと思った」とさりげなく言っておられる。
(『花の旅立ち』二一八~二二三頁)
ご著書は、純子先生の初めてのエッセイ集で今から二十三年前に上梓されました。
私も若かった頃の当時を懐かしく思い出しながら、純子先生の日常のほのぼのとした夫婦愛、家族愛、また、その時に遭遇された人・事・物に対しての深い愛(日時計主義含む)に心ひ魅かれ感銘を受けました。
また、谷口雅宣総裁先生の素敵な挿絵、写真は決して見逃せません。
そして、忘れもしません、私達夫婦の絆がより深まったことも。
(大和島根R5年10月号)

№25
『神 真理を告げ給う』
緑ケ丘支部 水津英子
数ある素晴らしいご著書の中で、本棚から最初に手にした『神 真理を告げ給う』、付箋も色々、線を引いたりと感動して拝読した事を懐かしく想い出します。ブックカバーには、『神が、谷口雅春先生を通して告げ給う真理の精髄』とあります。
…二度目の海外巡錫のであるので、前回と同じ話をして重複の感じで聴衆を倦(あ)かしめてはならない。(中略)私は毎夜眠りしなに何を話したらよいか導き給えという意味の祈りをして眠ることにした。すると暁方(あけがた) に目覚めたときに夢うつつの如き心境に於いて、神がわたしに真理を、“かく語れ”というかのような意味の声を聞いたのである。(中略)
それをわたしは筆記したのではない。唯、神が繰返し告げ給うた言葉を記憶によって再現して、それを文章に表現したのものが本書である。従ってその文中“わたし”とあるのは、“神”御自身のことであって谷口のことではない。(後略)はしがきより
あなた達・人間は単なる被造物ではないというのは、あなた達・人間は、“わたし“自身の意識的な自己顕現として、あなた達の内に宿るところの“神”を意識して此の世に出現しているのだからである。(中略)人体は、わたし自身の“意識的顕現”の“座”であるからである。
肉体の生命も尊重しなければならないというのは、ひとりの肉体の生命がなくなれば“わたし”自身の意識的顕現の“座”がひとつ無くなるからである。(中略)人間の肉体生命が尊ばれなければならないのは、それが単なる“人間の肉体”ではなく、神の生命の意識的自己顕現の“座”であるからである。(後略)100~101頁より
私達は常に神様から忘れられることなく、慈しまれ、愛され続けている「神の愛(めぐ)し児」である。神様との一体感と神の子の自覚が深まるご著書です。是非ご拝読下さい。
(大和島根R5年9月号)

№24
『人生の主人公となるために』
長浜支部 青砥照子
このご著書は、前生長の家総裁谷口清超先生が、青年向けに月刊誌『理想世界』に連載されたものを編成されたものです。私がこのご著書を求めましたのは、平成十七年十一月、総本山秋季大祭団体参拝の時です。初版発行は、平成十七年十一月二十日です。秋季大祭の記念に発行され、翌日、大拝殿の最前列で挙手をして購入させて頂いた思い出深いご著書です。参拝記念の印を押しています。繰り返し、拝読し、心を留めた箇所はライン引きしています。
その後、カナダ在住の娘の所へ向かう長時間の乗機中、このご著書を書写し手土産としました。ご著書中、一番心に留まった文章は、
あなたがこの世に生まれて来たのは、あなただけの幸福や、あなたの家の発展だけのためでなく、全ての人々のためになる働きをするためだ。いや、人間ばかりでなく、ありとあらゆる生き物を幸せにするために生まれて来た「天の使い」である。
……あなたは、どうしても幸せにならなければならない。…何故なら、あなたは、「神の子・人間」という真理を知っているからである。…あなたの魅力を現わし出そう。それが、あなたの未来を、必ず偉大ならしめる。
……神と人とは一体だ。神は人であり、人が神であり、吾々の中に全てがある。それが、人間の「実相」である。それ故、吾々は心を安らかにして、全てが完全に成就している。至福無上の世界、「神の国」が「今、ここにある」と確信すればよいのである。今さら「与え給え」と神に祈るのではなく、「与えられていて、有難うございます」と感謝し、感涙にむせび、歓喜勇躍し、高らかに神を称え奉(まつ)ればよいのである。
この度、また書写をして、父子家庭となった次男家族へ送りました。素敵なカバー表紙は、そのまま付け、ご著書の文章はリングノートに心を込めて書写しました。信仰をもって生きることの意義、世界が紛争に揺れる今こそ、その意味を一緒に考えてみようとの思いを込めて…。
二人に届いた様です。ラインに入ってきました。来春高校受験をする孫からは、
「お父さんと一緒に読みました。ありがとう。優真」
そして、次男からは、
「時間をかけて書写してもらって、ありがとうございます。賢二」
(大和島根R5年8月号)

№23
『生命の謎』
新選 谷口雅春選集18
大田本町支部 西村世紀子
この聖典は何度拝読しても、ドキドキわくわくの感動を抱かないではいられません。赤や黄色や鉛筆や☆印などあちこちに線引きや“大事”の文字など記しています。読み返す度に感動を新たにします。それは「謎」が徐々に解き明かされていく爽快さではないかと思われます。
私は生家で義叔母から生長の家のみ教えを伝えられ、25歳から半世紀近くみ教えと共に生かされてまいりました。
谷口雅春大聖師はこの聖典の220頁に
【諸君が吾々の光明思想に触れる、そしてすぐそれに魂の共鳴をよびおこして同じ生長の家の家族として吾々のグループに入って来るのはそれは過去世に於いて、私がどこかで哲学を説き宗教を教えていた時にすでにその教にふれていた人々であるのである。『生命の實相』に書かれている神一元の哲学が何らの疑いをも挿む余地なき自明の理であるとして「物質の無」が当然として受けとれるのは決して一代や二代の修行によって得られる事ではない】とお説きくださってていて嬉しく納得しました。また、190~191頁には【その高級霊は自分が地上へ生まれて出る時期を調節して、その友達の霊魂が地上に生まれる時と場所とを同じくして、互いに手をとりあって人類の進歩に貢献しようと約束することもあるのである。】とあります。
この箇所は何年か前の幹部対象のご指導で佐藤香奈美元白鳩会長が引用され、忘れられません。白鳩会運動に携わる中で、何度このご文章を思い返したことか!いつも仲間の皆様に勇気と気概をいただいてまいりました。
またこの聖典には「百萬人のための哲學」という小題がついていて、はしがきには【哲学の最も深奥なる問題を、全然難解な哲学用語を羅列しないで、平易に通俗語をもって百萬人にわかるように説こうと企てた】【人間が此の地上に生まれて来た使命を知らしめ、(中略)真の人生の意義と価値とを知らしめ、生き甲斐を与えんがために執筆せられた】とあり、読み進める魅力に溢れた聖典の一つです。
(大和島根R5年7月号)

№22
『生命の實相』に学ぶ
川跡相愛会 大坪弘衞
私は何十年前から深い教えを受けた、徳久克己元本部講師のご著書“『生命の實相』に学ぶ”を時間があれば何回も何回も繰り返し読まして戴いております。
ご著書より
私は『生命の實相』をテキストとして、何年も話をさしていただいています。そして、何回も何回も話をしているのだから、自分では、すっかり理解したつもりでいましても、話をするたびにまた新しいことを発見するのですから、『生命の實相』という本は、まことに不思議な本であり、どのくらい深い真理が説かれているかわからない本で、まことに「聖典」と呼ばれるのに、ふさわしい本ということを、しみじみと感じます。新しく読む度に、
「あら、こんなことが書いてあった」
と、新しい真理を発見し、自分で、びっくりしてしまうのです。
○ 病気より性格の方が治りにくいのは、なぜでしょうか?
『生命の實相』にふれて、病気はよく治るのに、性格はどうも治りにくいという場合があります。
『われわれの経験によると病気はかなりの大病でも治りやすいのでありますが、性格は病気よりいく分治りにくいのであります。この理由を考えますのに、人間は病気というものに対してはこれは自分の本性ではない、本来自分は健康であったのだという「自覚」がたいていはある。その上、この病気をぜひ治したいという「熱望」がある。この「自覚」と「熱望」とが病気の治る上に非常な助けとなるのであります。ところが性格の欠点にいたっては、よほどの反省のある人でない限りは欠点があるか無いかもわらない。低い程度のままで神の子だと思い上って「神の子」たる自分の真我(ほんとのわれ)に対して安い値段をつけて甘んじている。だから、自分の性格の欠点を治したいとも思わず、よいかげんのところで自分をごまかして、自分はこれで向上の余地がないというような思い違いに陥りやすいのであります。これを高慢とか慢心とかいいまして、性格の向上の上に非常な障りになるのであります。むかしから聖人君子といわれるような徳の高い人ほど自分の罪深さをひとしお感ずるというのは、真我(ほんとのわれ)に一文も負けない正札値段をつけているから、今の程度の自分ではまだまだ偽我(にせのわれ)であって正札値段に達しないということを感ずるからであります。
「人間神の子」の自覚というものは今のままの、現象に現れている自分、そのままで神の子ではない、ということをビシッと教えていてくださいます。
聖典を正しく読み、真理を正しく理解し、誤りの無い生活を実践することが肝要だとこのご本は教えて下さいます。(大和島根R5年6月号)

№21
新版『幸福を招く365章』
伊波野支部 山根久仁子
私は、今聖使命会費取扱者をさせて頂いていますが、コロナ禍になってから誌友会のない月は自宅に会費を持って来て頂くようになりました。ある会員さんが来られて、玄関の日訓を見て、「日訓は毎日『日時計日記』に写すといいですよ」と教えて頂き、それからは必ず書き写すようになりました。
また、私は仕事の合間に時間があると聖典を拝読していますが、ある日の夕方、本を読みたいなあと思い、ちょうど開いて見たのがこのご文章でした。
「われは神の子である。神より祝福されたる者である。神の愛は、わがすべての過ちを赦したまいてわれを祝福したまい、愛したまうである」斯(こ)う仕事の合間合間に、三十秒から一分間でよいから、眼を瞑(つむ)って此の言葉を心の中に黙念せよ。疲れたとき、憂鬱になったとき、この黙念をつづけるならば不思議に憂鬱は去ってしまい、疲労は回復するのである。更に静かに深呼吸しながら、「神の生命流れ入りてわが疲れを癒やしたまう。神の智慧流れ入りてわが仕事を導きたまう」と念ずるならば、仕事を遂(すい)行(こう)するよき智慧が湧(わ)き出て来て仕事が順潮に運ぶのである。(225頁)
私にとって最もふさわしい最高の御文章でした。喜びと感動を覚えました。私はこの言葉を毎日黙念したいと思い、ご文章を紙に書いてポケットに入れ、覚える事にしました。また、『日時計日記』にも書き写しました。それまで足の痛みなどあり、体調が優れず憂鬱になる時がありましたが、日々心の中で黙然を続けていると順潮に回復しました。心も明るくなり前向きな善のみの生活を心がけています。
伊波野支部は新しい集会所が出来て、誌友会には沢山の方が喜んで参加されます。また、行事があるといつもお誘いして沢山参加していますが、大和島根3月号に載っている2020年2月の神性開発出雲練成会の写真には伊波野支部の3名が映っています。早く対面の練成会が出来るといいですね。皆さんと心待ちにしています。
(大和島根R5年5月号)

№20
『心でつくる世界』
塩冶さくら支部 柳光貴代美
~宗教と科学の双方を愛する人間が両者の共存を願って書いた一条の心の軌跡である~(はしがきより)
今から25年前にこのご著書は上梓されました。【真理を探究する】という目的に於いては宗教と科学は同じであると総裁先生はそのはしがきで述べておられます。著者は当書において、生長の家の基本的教義の中の【縦の真理・横の真理】特に現象世界がどのように“心の影”として展開するかを心理学的知見や最新の医学的知見も交えて解説しています。
「神の創造なる世界は、人間の感覚によって捉えられる「四次元」程度の低次元世界ではなく、もっと高次元の存在であり、従ってもっと完全で素晴しい世界である、と考える。にもかかわらず、我々人間が「目に見えるものだけが真実だ」と考え、肉体の感覚に依存したものの見方をしている限り、その神の創造の“本体”を知ることができず、その四次元世界への“投影”としての物質的世界のみが感覚される。」〈305~306頁〉
最新の量子論によると、すべての素粒子はヒモであると考えられ、この超ひも理論によると、世界は10次元かもしくは11次元の時空間ではないかという考えに至るようです。著者が述べているように、「宇宙全体が実はもっと高次元の存在であるにもかかわらず、我々人間のもつ不完全な認識の形式によって“本体”を知ることができないだけかもしれない」という事に繋がります。また現代物理学の最先端では「すべての存在はつながっている」と科学的に証明されてきているそうです。私たちの思いや言葉、行動が人類全体、地球全体に影響を与えるということになります。生長の家のみ教えの素晴らしさを改めて感じている今日この頃です。(大和島根R5年4月号)

№19
『希望を叶える365章』
城西ちどり支部 長野充子
青年会の誌友会(ネットフォーラム)で毎月輪読をしています。素晴らしい谷口雅春先生のご著書です。
~人生とは希望に向かって歩みゆく魂の旅路~ (はしがきより)
「必要に応じて適当な智慧が」
常に神想観して「われ神の子、神の智慧常に導き給う」と念じている者はその行動の方向をあやまることはないのである。何事をなすにも先ず神の智慧を勧(かん)請(じょう)し、神の智慧に導かれるとう云う自信を得てから行動すべきである。若(も)し「われ神の子、神の智慧に常に導かれる」と毎日怠らず念ずるならば、咄(とっ)嗟(さ)の場合、祈るひまも念ずるひまもない時にも、平常(ふだん)に得ている「神の智慧と一体である」と云う自覚から最も適当な処置がとれて、自己が傷つくことなどはないのである。 (283~284頁)
青年会のお世話をさせて頂くことにより、この本に出合えたことは、神さまから宝物を頂いたようで本当に感謝しています。毎月、輪読しながらどの章も感動の連続です。
また、日々の生活の中で、フッと思わぬアイディアが浮かんできたりすることがあります。常に手元において困った時でも、その都度開いてみると、その時にピッタリの言葉が書いてあり、前向きに物事を考えられるようになります。「神の智慧常に我を導き給う」という言葉を心の中で唱えながら生活すると、神さまにいつも護られている感じがして、安心して日々を送ることができるようになりました。
「『与えよ、さらば与えられん』と云う事は希望実現のための永遠の法則である。祝福を与えれば祝福が返って来、愛を与えれば愛が返って来るのである。」是非皆様におすすめしたい一冊です。
(大和島根R5年3月号)

№18
『神と偕に生きる365章』
古志原支部 小立照子
ロシアがウクライナに侵攻してから、毎日悲惨な状況がテレビで映し出されています。今まで幸せにくらしていた人々に、突然に襲いかかってくる闇。戦争はこんな状態でも起こるのだと、とてもやるせない気持ちでいっぱいです。
生長の家では、どんな悪人でも実相を観て完全円満な神の子を観る。でも、なかなかプーチン大統領の実相を観る事ができにくいのです。そんな時「神と偕に生きる真理365章」をなにげなく見ていると「世界平和のための祈り」というところが目に入りました。
「戦争は結果であり争闘精神が原因であるから、戦争の根源となるべき、争闘精神が無くなることが先ず必要なのである。(中略)私たち生長の家信徒は『戦争がなくなりますように』とも『争闘精神がなくなりますように』とも祈らないで、唯『神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う、その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う』と祈ることにしたのである。愛と平和の思いに満たされたら争闘精神はなくなり自然に戦争はやみ、平和が招来されるからである。」と説いてありました。(同書272頁~)
第三次世界戦争が起こりそうになった時に世界平和の祈りができて、アガシャの予言が変更されたという事です。世界平和の祈りが一番大切であることがわかった時に新バージョンの「世界平和の祈り」が出され驚きました。また、『人類同胞大調和六章経』も出され、島根教区では毎日一つずつ祈りの読誦が行われています。皆様と一緒に心を合わせて読誦できる事が素晴らしいです。一日も早く世界に平和が訪れる事を祈ってこれからも読誦していきます。(大和島根R5年2月号)

№17
「真・善・美の世界がある」
~現象の奥にある実在の世界~
揖屋支部 星野佳子
谷口清超大聖師は、生長の家のご縁を戴かれたのが松江です。
◆真・善・美について
さて、「神智の導入」という時、一番正しく確実なのが「神想観」の実行だ。これは生長の家の会員なら、全ての人が各家庭で、あるいは会合で実行していることであろうが、これも「時々たまに」ではなく、毎日実修して、その時よいヒントを得たならば、すぐメモか手帳にかきとめておき、三十分(あるいは二十分)の実修が終ったら、具体化の方法を考えてみるとよいのである。しかし神想観の時は「実在界」の完全円満な実相を心で観るのであるから、「これこれをしてくれ」と神に強要するのではなく、ただ純粋に「神の国」を心に思い描くのである。
(中略)神想観というのはいくらでも奥が深く、浅い状態では外界からの(霊界からの)影響をうけることもあり、形だけの神想観ではなく、永年練習(実修)を続けるということが大切である。(中略)
このように迷妄の思いは、常に「美しさ」を欠いている。何か不調和であり、かたよっていて、全体的な調和の美を持たないのだ。それは真が、善であり、同時に美であるからである。有名な故岡(おか)潔(きよし)教授は数学の大家であったが、数学とは美学であるとも言われた。正しい解答の方程式は「美しい」のである。又それは美しいものを愛する心から、忽(こつ)然(ねん)として啓示されて来る。従って美を見る心がないと、「善」も「真」も正しく把(と)らえられないものである。(127~129頁)
大聖師谷口清超先生は、戦争も[迷いと迷いのぶつかり合い]であるから、人類の迷妄を消し去り、お互いが努力修行を積むことが何よりも大切である。従って本当の宗教が大いに盛んになり、神の御心の実現を志す人々がふえることが根本的な解決法となるのである。とご指導戴いています。混沌とする世の中、自然の美しさ深く見つめ善き言葉を発声し、内なる神の御心を祈り続けたいと思います。実例を通して優しく、深く真理をご指導して戴いています。喜びのご本です。是非ご本を開いて下さい。

№16
『新版善と福との実現』
~牡鹿の足のように~
安来白鳥支部 豊嶋君子
私は、当書の第九章“「牝鹿の脚」の話“に特に心惹かれました。牝鹿は高い山登りの際、安全な山の背を前脚が踏み、その脚あとを確実に後脚が踏むという…人間も同じように潜在意識は現在意識の欲する所をぴったりと信じて進まなければならないと説かれています。『そのままに帰ること、そのままに神の生命をわがものとし、神の智慧をわがものとし、神の叡智をそのままに一挙手一投足をまかせ切れば好いのである。』とあり、自我に固執せず神に全托することと理解しました。
第十一章には、『総ての功徳は皆、神様から来るものである~。』と示されています。現実世界の出来事に憂いながらの日々でも、見渡せば自然からの沢山の恩恵に気づきます。神様から既に与えられている「そのまま」に感謝し祈ることを実践し、牝鹿の脚のように素直にしっかりと前進することを学びました。逸話と共に数々の心に沁みる感動の言葉を頂ける有りがたい一冊です。
(大和島根)R4年12月号)

№15
『人生を見つめて』
~深く自己を見詰め、人生を見詰める~
宍道支部 山口秀子
新型コロナウイルス禍、ロシアのウクライナ侵攻、そして地球温暖化等、私たちを取り巻く環境は、不安、恐怖そのものです。その中で日時計主義で何とか心穏やかに幸せに生活出来本当に有り難いことです。
近年生活が大きく変わり、時間に余裕ができ自分のことを見詰め直し、聖典の拝読と思い開いた一冊です。前回、拝読した時はそれなりの理解でしたが、年齢を重ねた今「新たに生まれる」、そうだと強く思いました。
本書に「何よりも大切なのは、深く自己を見詰め、人生を見詰めて、今までのような、人間の肉体的表層で生きる生き方をやめ、もっと深いところから生きる生活をはじめることである。又、聖典を読むばかりで神想観を怠る者は二輪車が一輪を失ったようなもので、完全にその魂が前進することができないのであると。そして私たちには神の霊がやどっているのですから、神はコトバ即ち想念でありますから、そしてその想念が創造の原動力であるから、私たちはつねに神の起こされたと同じ想念を発想して、それを創造しなければならない。それでこそ神の子なのです。」と。
有り難い生活で今の一瞬をどのように生きるべきか、反省と喜びが湧いてきました。神と共なるが故に一切のこと成し得るのである。今後、皆様の実相を祈り、神様の世界の顕現を祈ります。この度は新生のチャンスを強く感じさせて頂きました。(R4年11月号)