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​私の感動した1冊

​1冊の本との出会い、新しい世界が広がる・・・

ピンクの花
人間無病の原理.jpg

『人間無病の原理』

 谷口雅春著作集 第五巻

朝山支部 藤江志美枝

 

 本書は、昭和六十年の初版から平成三年の第十三版刊行まで、「谷口雅春著作集」として読み継がれてきたご著書の第五巻です。
 私がこの本を知ったのは、数年前の団体参拝練成会の帰りのバスの中でした。当時私は、神想観の祈り方に戸惑い、無力感を抱いていました。同乗されていた講師の方に尋ねたら、「コツのようなものはないが…。」と言って、この本を紹介して下さいました。
 
 
神想観とは、神のつくり給うた実在の世界には、円満完全な実相のみ独在するということを信じ、(略)神のコトバを素直にそのまま幼な児の心をもって承認し受けるだけのこと。(170~171頁)

 

 このコトバに力を頂き、神様がお創りになった“善”のみの世界を観じて行ずる神想観が楽しみになり、毎日行じました。その頃は、特に、夜半の動悸が長く続き、「治りたい」の一心でしたので、病を掴んで放さないという苦しい状態が続いていました。

 治そうと思うものは却って治らず、治そうと云う心さえも放ち去って心が自由になったとき、病気がない(●●)のである。(11頁)

 この神の子の自覚を促すコトバを知り、不思議な力が我が内にも宿っていると気付きました。早朝神想観では、「吾れ神の子なり」と念じていますので、神様のみ心を強く感じています。現在動悸が治まり、感謝の毎日です。
 さらに、病菌と人間の関わりについて、

 同じ結核菌でも、人間を害する毒性の強いものになるかどうかは、その宿主の人間の心如何(いかん)によるのであります。(略)寛容の心…(略)(94~95頁)

 とあり、やはり心が大切であると知りました。
 義父は、主人が三才の時結核を患いました。亡くなる方が増え、諦めかえていた時にみ教えに導かれたのです。『生命の実相』を読み、聖経読誦等を続け、神様から頂いた命であったことが、自宅療養の苦労の中でわかったと話していた事を、義母が語ってくれました。
義父は七十四才迄生きました。人間同志は勿論のこと、自然・菌類とも、大調和して生きることが、如何に大切であるかを学べたことにも感謝します。

(大和島根R6年5月号)
 

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『日々の祈り』

― 神・自然・人間の大調和を祈る 

最後の項目「病気本来なし」を自覚するために

「日々刻々新生を自覚する祈り」

                        

大社東支部 桑本和美


年を重ねても健康で幸福で心豊かな日々を送りたいとの願いからこの祈りが心に響きました。

「人間は神の子である」という教えの意味は、あなたは心の力によって肉体や環境や運命を自ら形づくるということである。あなたは、肉体・環境・運命の“受け手”ではなく“創り手”である。だから、毎日が同じことの繰り返しであると感じるのは、錯覚である。(中略)
「現象は常に遷り変わる」と教えられていることを忘れるな。現象は常に変わるのだ。変わらないのは、その奥にある実相のみだ。現象を実相のごとく堅固不変だと考えてはならない。(中略)
現象が常に遷り変わるということは、あなたの肉体も常に変化し続けているということだ。言葉を換えれば、あなたの肉体は常に新生しているのだ。それを認めずに、昨日と同じ肉体が今日もあると思うものは、新生した細胞を昨日の肉体と同じ状態に閉じ込めようとしているのである。一年前と同じ肉体の自分がいると思うものは、一年前のシミや故障や機能不全を再生させようとしているのである。肉体の免疫系は神の癒す力の発現であるから、あなたの心が「迷い」によって抑えつけない限り、シミや故障を修復し、機能を健全化させるために常に働いているのである。ある科学者の試算では、人間の肉体を構成する原子は一年間で98%が入れ替わる。外界と接する部分の更新は特に顕著であり、胃の内側の粘膜の細胞は五分ごとに入れ替わり、皮膚の表皮細胞は一ヵ月で交替し、堅固に見える骨でさえ三ヵ月でその原子は更新される。これが新陳代謝であり、肉体が常に変化し新生している証拠である。(252~255頁)

人間は神の無限の多様性を内に蔵した神の子であるから自分の心の想いによって、肉体は常に変化していくことがわかり易く記載されており、ありがたく拝読いたしました。
 また、毎朝皆様方と一緒にフェイスブックで早朝行事に参加し、山口教化部長の明るく力強い先導による神想観、『甘露の法雨』読誦、各種お祈り、六章経等の拝読を重ねる内に、気付けば、三年前から起こっていためまいがかなり快復しました。早朝行事の実修のお陰と思いありがたく感謝致します。
 これからも『日時計日記』に光明面のみ記載を続けて、祈りと感謝の喜びの生活をさせていただきたいと思います。(大和島根R6年4月号)

 

夢の地平線.jpg

№31

『夢の地平線』

 江津第三支部 山藤 瑞江
はしがきより「人生にはさまざまなことが起こります。時にはつらいこと悲しいこともあります。それでも人が生きることには価値があり大きな喜びを伴う――そう伝えたいと思って書き継いできました」とあります。若い人たちに向けた純子先生の強いお気持ちを感じます。純子先生のご文書には、人の心の持ち方、処し方、考え方が随所にちりばめられていて素直に私の心の中にコトバが入ってきました。

“腹立つ心“のところでは、「嫌なことが起こった時は立ち止まって考える余裕があるといい、必ず何かを教えてくれている」と促され、その原因の一つは自己中心の心があること。また、人間の本質には善性があって全ての人がその善を表現しようと生きているのだから人間の善性を肯定できれば一方的に批難の気持ちは起こらない事が書かれてありました。「例え一時腹が立つことがあったとしても心の切り替えをしようと思うし、そのようなことが習慣になれば心の切り替えが上手になり、いたずらにだらだらと不快な思いを引きずることもない。」腹を立てるのは「我」であり「にせものの心」、本当の自分は全ての人を思いやり全ての人と繋がっている自分なのだと。
最後には、「我」の心が出ようとするとき、良心が警戒サインを出す心の習慣ができれば、豊かな楽しい日々が過ごせるだろう、と綴られてありました。私も嫌な事が起こった時には立ち止まって考える余裕を持ちたいと思いました。

私個人ひとりでは生きられない。多くの周りの人の恩恵で生かされている私です。
人様の為にどれ程ご恩返しが出来るか心許ない私ですが小さなことからでも人様のお役に立つ、喜ばれる事が出来る私でありたいと思います。(大和島根R6年3月号)

 

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№30

『伸びゆく日々の言葉』

 川津支部 足立冨代
 総裁先生が毎日配信してくださるポッドキャスト(※)のお声を直接お聴き出来、味わい深く感じております。このご著書の読みやすい所に好感をもちます。一年間十二項目に分けてひと月三十日にも分けられタイトルもあり、直ぐに読んで見たいと思えば、一目瞭然であり、人生苦や朗らかな生き方、人生全般に日々の糧としております。例えば、

七月五日 「縛りと解放」

 人は引っぱれば引っぱる程、その力に抵抗したがるものだ。犬に綱をつけて引っぱるように。そんな時、犬に餌を与えたり、やさしい笑顔で愛を与えると、引っぱらなくてもついてくる。あなたの顔に笑顔が消え、あなたの手に”綱”がちらついている時、犬も人も、あなたを警戒するのだ。妻や子が逃げようとするのもそんな時であるし、仕事やおとくいさんが逃げるのも同じである。相手を縛りつけようと思うな。綱をつけてくくりつけるのが「入信」ではない。先ず愛を与え、解放することである。すると、必ずよき人々が集まってくる。

 

 本当にその通りであります。兎角勇み足になりがちを反省する様に心がけたいものです。次に

十一月二十三日 「伸びる日々」

 生きていると言うことは、伸びていくということだ。年をとった人も、身体は伸びなくても、心は無限に成長する。青年は、心も肉体も、どこまでも伸びる。こんな素晴らしい時期は又とない。だから大いに感謝して、毎日を送ろう。その感謝を忘れていると、伸びるものが伸びきれず、いびつになり、性格もひねくれる。するとそのひねくれていることに又ひねくれて、折角の青春を台無しにする。こんな勿体ないことをしてはいけいない。貴方の人生は「貴方のもの」であって、他人のものではない。だから日々大事にして、伸ばして行こう。植物も「感謝して」美しく伸びるではないか。

 今回のご著書により、日々勇気を頂き頷くことも多いですが、日々何事に於いても、喜べる自分に感謝できますように、清超先生の深い愛の何パーセントでも、一瞬一瞬を大切に心がけていきたいとものです。

※ポッドキャスト=スマホやパソコンなどで聴くことができる、インターネット上の音声番組のこと。何度でも繰り返し聴くことができます。

​(大和島根R6年2月号)
 

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№29

『生と死の教え』

朝山相愛会 奥井久人

 この聖典は、生と死の具体例を通して”生きることの意味”や”人生の意義”を読みやすく分かりやすく、深く考え学べる一冊です。
この世に生を受けた人は、例外なく死ぬのは皆同じである。それは人間の「いのち」そのものは「神の子」であり、不死・不滅であるが、その肉体は魂の使う"道具"だから、一定期間がすぎるとそれを捨てて、別の世界に入って行く。そして又別の人生を送りつつ、色々の事を学んで行くように出来ている。ことに生と死とは新しい道具の使いはじめと、終わりであり、共にとても大切なことを学習するチャンスである。そして又次の人生ではさらに学習したことを生かしつつ、よりよい「いのち」の表現をやることになっているのだと。また、「人が一時的な地球学校の人生を終ると、次のより高い人生学校に入学する。これが“肉体の死”の真相であるから、何ひとつ恐れることはない。物質としての金銭や家屋敷を、あふれる程かきあつめても、それらを捨てて、全ての人はあの世に旅立って行く。つまり、「人生学校」を卒業して、次生・後生に移って行くということである。」とご教示くださっています。
また、同先生の『限りなく生きる』というご著書には、「(前略)吾々の周囲に出てくる一切の出来事が、その学習の手引きであり、教材である。そこから何かを学び取らなければ人生は卒業できない。(中略)吾々はこの日本に生れている日本人だ。しかし今そこから本当に感謝と愛と報恩を学び取らなければ、やがて吾々はもっと苦しい国に生れ出て、今まで学ぶことのできなかった「感謝」や「愛国の思い」を学び取ることになる。今恵まれている肉体や環境にどれだけ感謝することができるのかが、次の人生を決定する最大の要因であることを、知らなければならないのである。」と。
この有り難きご指導に唯々合掌あるのみであります。

​(大和島根R6年1月号)

 

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№28

『常楽への道』

松江城西相愛会 長野隆治


 生長の家信徒行持要目の中で、私が一番努力を要するのが「常に自我を死に切るべし」である。自我を死に切らねば“そのままの心”にもなれないし、“天地一切のものに感謝する“こともできない。また、生長の家大神―総裁・副総裁―御教の運動の中心から外れるかも知れない。
 

 吉田國太郎先生は、「常楽への道」の中で「悟ると云うことは、難しいと云えば難しいことです。佛の言葉を沢山憶えて、それをうまい具合に振り回せることと、悟りが深まったこととは一寸見た目には同じように見えても、全く別のことです。どれだけの相違があるかと云うと、我の上へ佛の言葉をのせて走っているか、我が消えて佛の生命が生きているかの相違です。動いている姿は同じようでも、結局、我が動いているか、佛が動いているかの相違ですから、天と地程の相違です。此処の處を、自分がしっかり、しっかり見つめて行きませんと、大変なことになります。」と説かれています。
 

 谷口雅春大聖師から、「私の弟子であるが、先生と呼びたくなるような素晴らしい人だった。」と評された吉田先生は、結核性の腎臓炎で片方の腎臓を摘出し、常に生と死との切っ先に立ち続けながら、永遠の生命のみを観つめ、死の一日前まで常人と同じ生活をして布教活動に挺身された。この著書は、先生が、自身の内に、出会う人々に、日常の生活の中に、神を観、求道と信仰の悦びを美しい文章で綴られた信仰随想集である。私にとって、信仰の原点に回帰するための大切な一冊である。
(大和島根R5年12月号)

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№27

『真・善・美の世界がある』

隠岐大久支部 海道 豊子

「ふざけてはいけない」(20頁)という言葉に私はビックリしました。

 (中略)この現象界には、失敗もあれば、肉体の死も病気もあらわれる。だからといって「神の子・人間・不滅のいのち(、、、)」の真理はいささかも曇らされてはいない。
(中略)そのことを出来るだけ多くの人々が、単に知識で知るだけでなく、いのち(、、、)全体で体得することが大切であり、それには日常生活の中で実相を観ずる行法、即ち「神想観」をやることが肝要である。それは丁度赤ん坊が父母の生活の中で、身体全体で父母のコトバや考え方や感じ方を体得して行くようなものである。これを抜きにしていのち(、、、)は正しくあらわれて来ないし、それを抜きにした人生を人々にすすめても、真に神の子は育たないのである。(20~21頁)

この本はとっても印象深く何度も読ませて頂きました。とっても難しい部分もあれば、厳しく心に響かせて頂く所もあるし、また体験談が沢山載っていて、笑ったり涙したりの感動と共に、真理を分かりやすくお説き頂いています。

この度、読み返して、新たな発見としてこの本とのご縁を知りました。
平成7年4月25日初版発行されていますが、はしがきは、平成7年3月1日に書いておられます。カバー写真は宇治別格本山で同年1月14日に清超先生自ら撮影されたものです。そのはしがきの3頁に平成7年1月17日阪神淡路大震災のことが書かれてありますが、この日、私は丁度宇治で早朝行事に参加していました。地震の間も先導の講師の方は一つも動じる事なく先導しておられました。1月10日から10日間練成に参加させて頂いていました。長女が4月に小学校に入るときで、3歳下の子だけを連れて、今は亡き義父が行くお金を出して下さり、家族の協力で行ってまいりました。
今もこの経験が、私の生活のベースになっていると思います。忘れがちですが、自分がどんな姿を表わしていても神さまがいつも見守って導いて下さると思わせて頂いています。どうぞ、このご本を一読下さい。

​(大和島根R年11月号)
 

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№26

『花の旅立ち』

新町支部 畑山千代枝

 令和四年四月号の『大和島根』に谷口純子先生の『二人で行く一本の道』と題して、平山郁夫画伯の奥様美知子さんの強い生き方が載っていました。
 一九九八年一月の帰省先の書店で純子先生が求めておられた、平山美知子『道はあとからついてくる―「家計簿」にみる平山画伯家の足跡』という本を見つけ、この妻なくして、今日の平山郁夫さんは決してなかっただろうと思われた。

 美知子さんは、簡単に筆を折ったのではなかった。画家になりたい一心で懸命に勉強した美知子さんにとって、絵は生命と同じくらい大切なものだった。二人の師である前田せい青そん邨 画伯からは「夫婦で競い合っていては、うまくいかないよ。どちらかが潰れるか、共倒れしてしまう」と言われる。そして長い葛藤の末に得た結論はこうだった。
「もし、何か捨てるのなら、自分にとって、一番大切なもの、価値あるものを捨てる。そうでなければ、捨てる価値はない。(略)捨てたものに価値があれば、その代わりに私が得るものは、もっと価値あるものだし、価値が生じるものにちがいない」(略)
 本の最後に幻の都、ろう楼らん蘭を訪れた時のことが記されている。楼蘭には、中国側スタッフの特別のはからいで、三十分だけ着陸することが許されて、平山さんは八枚のスケッチを仕上げたそうだ。その時平山さんは、「鉛筆を削れ!」とそれまで一度も言ったことのないような激しい言葉で叫び、必死の形相でスケッチを続けた。その間、美知子さんは鉛筆を削ってばかりいて、まわりを見回すゆとりもなく、楼蘭を去る時、はじめて空を見上げ、「何と美しい空だろう」と思ったそうだ。そして「『ああ、ふたりでひとつのことをしている』と、チラと思った」とさりげなく言っておられる。
    (『花の旅立ち』二一八~二二三頁)
 
 ご著書は、純子先生の初めてのエッセイ集で今から二十三年前に上梓されました。
 私も若かった頃の当時を懐かしく思い出しながら、純子先生の日常のほのぼのとした夫婦愛、家族愛、また、その時に遭遇された人・事・物に対しての深い愛(日時計主義含む)に心ひ魅かれ感銘を受けました。
 また、谷口雅宣総裁先生の素敵な挿絵、写真は決して見逃せません。
 そして、忘れもしません、私達夫婦の絆がより深まったことも。

 

(大和島根R5年10月号)
 

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№25

『神 真理を告げ給う』

緑ケ丘支部 水津英子 
 数ある素晴らしいご著書の中で、本棚から最初に手にした『神 真理を告げ給う』、付箋も色々、線を引いたりと感動して拝読した事を懐かしく想い出します。ブックカバーには、『神が、谷口雅春先生を通して告げ給う真理の精髄』とあります。 
 
 …二度目の海外巡錫のであるので、前回と同じ話をして重複の感じで聴衆を倦(あ)かしめてはならない。(中略)私は毎夜眠りしなに何を話したらよいか導き給えという意味の祈りをして眠ることにした。すると暁方(あけがた) に目覚めたときに夢うつつの如き心境に於いて、神がわたしに真理を、“かく語れ”というかのような意味の声を聞いたのである。(中略)
 それをわたしは筆記したのではない。唯、神が繰返し告げ給うた言葉を記憶によって再現して、それを文章に表現したのものが本書である。従ってその文中“わたし”とあるのは、“神”御自身のことであって谷口のことではない。(後略)はしがきより
 あなた達・人間は単なる被造物ではないというのは、あなた達・人間は、“わたし“自身の意識的な自己顕現として、あなた達の内に宿るところの“神”を意識して此の世に出現しているのだからである。(中略)人体は、わたし自身の“意識的顕現”の“座”であるからである。
 肉体の生命も尊重しなければならないというのは、ひとりの肉体の生命がなくなれば“わたし”自身の意識的顕現の“座”がひとつ無くなるからである。(中略)人間の肉体生命が尊ばれなければならないのは、それが単なる“人間の肉体”ではなく、神の生命の意識的自己顕現の“座”であるからである。(後略)100~101頁より

 私達は常に神様から忘れられることなく、慈しまれ、愛され続けている「神の愛(めぐ)し児」である。神様との一体感と神の子の自覚が深まるご著書です。是非ご拝読下さい。
      
(大和島根R5年9月号)

 

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№24

『人生の主人公となるために』

 長浜支部 青砥照子 
 

 このご著書は、前生長の家総裁谷口清超先生が、青年向けに月刊誌『理想世界』に連載されたものを編成されたものです。私がこのご著書を求めましたのは、平成十七年十一月、総本山秋季大祭団体参拝の時です。初版発行は、平成十七年十一月二十日です。秋季大祭の記念に発行され、翌日、大拝殿の最前列で挙手をして購入させて頂いた思い出深いご著書です。参拝記念の印を押しています。繰り返し、拝読し、心を留めた箇所はライン引きしています。
 その後、カナダ在住の娘の所へ向かう長時間の乗機中、このご著書を書写し手土産としました。ご著書中、一番心に留まった文章は、
 
 あなたがこの世に生まれて来たのは、あなただけの幸福や、あなたの家の発展だけのためでなく、全ての人々のためになる働きをするためだ。いや、人間ばかりでなく、ありとあらゆる生き物を幸せにするために生まれて来た「天の使い」である。
 ……あなたは、どうしても幸せにならなければならない。…何故なら、あなたは、「神の子・人間」という真理を知っているからである。…あなたの魅力を現わし出そう。それが、あなたの未来を、必ず偉大ならしめる。
 ……神と人とは一体だ。神は人であり、人が神であり、吾々の中に全てがある。それが、人間の「実相」である。それ故、吾々は心を安らかにして、全てが完全に成就している。至福無上の世界、「神の国」が「今、ここにある」と確信すればよいのである。今さら「与え給え」と神に祈るのではなく、「与えられていて、有難うございます」と感謝し、感涙にむせび、歓喜勇躍し、高らかに神を称え奉(まつ)ればよいのである。

 この度、また書写をして、父子家庭となった次男家族へ送りました。素敵なカバー表紙は、そのまま付け、ご著書の文章はリングノートに心を込めて書写しました。信仰をもって生きることの意義、世界が紛争に揺れる今こそ、その意味を一緒に考えてみようとの思いを込めて…。
 二人に届いた様です。ラインに入ってきました。来春高校受験をする孫からは、
「お父さんと一緒に読みました。ありがとう。優真」
 そして、次男からは、
「時間をかけて書写してもらって、ありがとうございます。賢二」
      
(大和島根R5年8月号)

 

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№23

『生命の謎』

新選 谷口雅春選集18

大田本町支部  西村世紀子

 

 この聖典は何度拝読しても、ドキドキわくわくの感動を抱かないではいられません。赤や黄色や鉛筆や☆印などあちこちに線引きや“大事”の文字など記しています。読み返す度に感動を新たにします。それは「謎」が徐々に解き明かされていく爽快さではないかと思われます。
 私は生家で義叔母から生長の家のみ教えを伝えられ、25歳から半世紀近くみ教えと共に生かされてまいりました。

 谷口雅春大聖師はこの聖典の220頁に

【諸君が吾々の光明思想に触れる、そしてすぐそれに魂の共鳴をよびおこして同じ生長の家の家族として吾々のグループに入って来るのはそれは過去世に於いて、私がどこかで哲学を説き宗教を教えていた時にすでにその教にふれていた人々であるのである。『生命の實相』に書かれている神一元の哲学が何らの疑いをも挿む余地なき自明の理であるとして「物質の無」が当然として受けとれるのは決して一代や二代の修行によって得られる事ではない】とお説きくださってていて嬉しく納得しました。また、190~191頁には【その高級霊は自分が地上へ生まれて出る時期を調節して、その友達の霊魂が地上に生まれる時と場所とを同じくして、互いに手をとりあって人類の進歩に貢献しようと約束することもあるのである。】とあります。

 この箇所は何年か前の幹部対象のご指導で佐藤香奈美元白鳩会長が引用され、忘れられません。白鳩会運動に携わる中で、何度このご文章を思い返したことか!いつも仲間の皆様に勇気と気概をいただいてまいりました。
 またこの聖典には「百萬人のための哲學」という小題がついていて、はしがきには【哲学の最も深奥なる問題を、全然難解な哲学用語を羅列しないで、平易に通俗語をもって百萬人にわかるように説こうと企てた】【人間が此の地上に生まれて来た使命を知らしめ、(中略)真の人生の意義と価値とを知らしめ、生き甲斐を与えんがために執筆せられた】とあり、読み進める魅力に溢れた聖典の一つです。

​(大和島根R5年7月号)
 

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№22

『生命の實相』に学ぶ

川跡相愛会 大坪弘衞       

 

 私は何十年前から深い教えを受けた、徳久克己元本部講師のご著書“『生命の實相』に学ぶ”を時間があれば何回も何回も繰り返し読まして戴いております。

ご著書より
 私は『生命の實相』をテキストとして、何年も話をさしていただいています。そして、何回も何回も話をしているのだから、自分では、すっかり理解したつもりでいましても、話をするたびにまた新しいことを発見するのですから、『生命の實相』という本は、まことに不思議な本であり、どのくらい深い真理が説かれているかわからない本で、まことに「聖典」と呼ばれるのに、ふさわしい本ということを、しみじみと感じます。新しく読む度に、
「あら、こんなことが書いてあった」
 と、新しい真理を発見し、自分で、びっくりしてしまうのです。
 ○ 病気より性格の方が治りにくいのは、なぜでしょうか?
『生命の實相』にふれて、病気はよく治るのに、性格はどうも治りにくいという場合があります。
『われわれの経験によると病気はかなりの大病でも治りやすいのでありますが、性格は病気よりいく分治りにくいのであります。この理由を考えますのに、人間は病気というものに対してはこれは自分の本性ではない、本来自分は健康であったのだという「自覚」がたいていはある。その上、この病気をぜひ治したいという「熱望」がある。この「自覚」と「熱望」とが病気の治る上に非常な助けとなるのであります。ところが性格の欠点にいたっては、よほどの反省のある人でない限りは欠点があるか無いかもわらない。低い程度のままで神の子だと思い上って「神の子」たる自分の真我(ほんとのわれ)に対して安い値段をつけて甘んじている。だから、自分の性格の欠点を治したいとも思わず、よいかげんのところで自分をごまかして、自分はこれで向上の余地がないというような思い違いに陥りやすいのであります。これを高慢とか慢心とかいいまして、性格の向上の上に非常な障りになるのであります。むかしから聖人君子といわれるような徳の高い人ほど自分の罪深さをひとしお感ずるというのは、真我(ほんとのわれ)に一文も負けない正札値段をつけているから、今の程度の自分ではまだまだ偽我(にせのわれ)であって正札値段に達しないということを感ずるからであります。

「人間神の子」の自覚というものは今のままの、現象に現れている自分、そのままで神の子ではない、ということをビシッと教えていてくださいます。
 

 聖典を正しく読み、真理を正しく理解し、誤りの無い生活を実践することが肝要だとこのご本は教えて下さいます。(大和島根R5年6月号)

 

幸福を招く365章.jpg

№21

新版『幸福を招く365章』

伊波野支部 山根久仁子
 私は、今聖使命会費取扱者をさせて頂いていますが、コロナ禍になってから誌友会のない月は自宅に会費を持って来て頂くようになりました。ある会員さんが来られて、玄関の日訓を見て、「日訓は毎日『日時計日記』に写すといいですよ」と教えて頂き、それからは必ず書き写すようになりました。
 また、私は仕事の合間に時間があると聖典を拝読していますが、ある日の夕方、本を読みたいなあと思い、ちょうど開いて見たのがこのご文章でした。
 
「われは神の子である。神より祝福されたる者である。神の愛は、わがすべての過ちを赦したまいてわれを祝福したまい、愛したまうである」斯(こ)う仕事の合間合間に、三十秒から一分間でよいから、眼を瞑(つむ)って此の言葉を心の中に黙念せよ。疲れたとき、憂鬱になったとき、この黙念をつづけるならば不思議に憂鬱は去ってしまい、疲労は回復するのである。更に静かに深呼吸しながら、「神の生命流れ入りてわが疲れを癒やしたまう。神の智慧流れ入りてわが仕事を導きたまう」と念ずるならば、仕事を遂(すい)行(こう)するよき智慧が湧(わ)き出て来て仕事が順潮に運ぶのである。(225頁)
 
  私にとって最もふさわしい最高の御文章でした。喜びと感動を覚えました。私はこの言葉を毎日黙念したいと思い、ご文章を紙に書いてポケットに入れ、覚える事にしました。また、『日時計日記』にも書き写しました。それまで足の痛みなどあり、体調が優れず憂鬱になる時がありましたが、日々心の中で黙然を続けていると順潮に回復しました。心も明るくなり前向きな善のみの生活を心がけています。
 伊波野支部は新しい集会所が出来て、誌友会には沢山の方が喜んで参加されます。また、行事があるといつもお誘いして沢山参加していますが、大和島根3月号に載っている2020年2月の神性開発出雲練成会の写真には伊波野支部の3名が映っています。早く対面の練成会が出来るといいですね。皆さんと心待ちにしています。

​(大和島根R5年5月号)

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